ベーシックな知識と教養

先日、京都大学の教育工学を御専門とされる先生とお話しする機会があり、その中で「今後、ICT技術やAIなどが更に拡大進化し、私達の生活の中で大きなウエイトを占めるようになってきた時に、従来の覚え込む事を主体とした教育は意味をなさなくなるのではないでしょうか?」とお聞きしたところ、「ベーシックなところの知識や教養は、今まで以上に高い水準のものが求められるようになるでしょうね。」という旨のお答えをいただきました。

さて来年から小学校でプログラミング教育がスタートするように、情報化社会の拡大伸長に合わせて、教育も大きく変わりつつあります。
今の子供達が社会の中心を担う頃には、現在は人間が行っている作業の多くがAIやロボットに置き換わり、情報化社会が更に進化することが十分に予想されますが、そういう時代に人間に求められる能力とは一体どのようなものでしょうか。

改めて情報化社会とは何かという事を考えますと、文字・画像・音声・映像等のデジタル化技術と、これらのデジタル情報をリアルタイムで処理できる通信技術の双方をベースとして成立する、必要な情報にいつでもどこでもアクセスでき、情報そのものに経済的価値があることが広く認知されている社会ということができます。
1990年代におけるコンピュータ処理能力の飛躍的な発展と、今世紀になってからの無線通信技術の広がりが情報化社会を具現化し、特にスマートフォンが普及した、2010年以降のわずか10年ほどの間に、私達の生活は大きく質的な変化を遂げました。
それ以前は、わからない言葉に出くわした場合、辞書を引いたり図書館に行って専門書を調べたり、目的意識を持って相応の行動を取る必要がありましたが、今は手元にあるスマートフォンで瞬時に検索し、疑問を解決することができるようになったわけです。
また同じ時期にAI技術が飛躍的に進展し、ビッグデータを処理することが可能になったことで、さらに私達は未来に近づくことが出来ました。
このような情報化社会の進展の中で、文科省を中心として「情報化の進展に対応した教育」の検討が1990年代から行われてきました。
ちょうどコンピューターが家庭に普及し始め、詰め込み型教育からゆとり教育への転換が完了した時期に当たります。
この検討の中で、知識記憶に重点が置かれていた従来の教育の意義が問われ、人間には自分で調べ、必要な情報を選択し、判断して行動する能力の育成が必要であると考えられるようになり、先述のプログラミング教育へと繋がってきているわけです。

私達は自社のプログラミング学習用ロボット・クムクムを使って、小学生を対象とした無料体験教室を実施しています。
私もこの体験教室に参加することがあるのですが、いつも驚くのは子供達の理解力と対応力の速さです。
もちろんパソコンを使ったロボット操作の体験教室に応募してこられる時点で、そもそもパソコン等に対するリテラシーが比較的高い子供さんであるということもあるのでしょうが、わずか2時間足らずの間に様々な動作をロボットにさせて楽しんでいる様子には、いつも感心しています。
やはり生まれた時から家にパソコンがあり、タブレットがあり、スマホがあり、友達とはオンラインゲームで対戦を楽しむといった情報化社会の子供達には、大人が考えているような「情報化社会には」といった大袈裟な考え方や高いハードルは存在せず、それを使いこなすことが普通の日常なのだろうというのが私の率直な感想です。

これに対して情報化社会の中で戸惑い立ち止まっているのは、実は私達大人の方ではないかと考えています。
先述の通り来年から小学校においてプログラミング教育がスタートするわけですが、実際の現場では何も準備が進んでいないところが多いといったニュースをよく見かけます。
この原因はハードを揃える予算や選定の問題、何をどう教えるかといった内容の問題、それ以前に現場の先生方が忙しすぎて、とてもそこまで手が回らないといった現場環境の問題など実に様々な要因が重なっているようですが、根本的なところは子供達に教えるべき大人側が「何をどうしたら良いのか、わからない。プログラミングとは何だ?」という状況にあることでしょう。
よく情報化社会における教育の在り方について、「情報の洪水をかきわけて、活用できる的確な判断力」とか「情報を活かす創造性や行動力」などと言われますが、これらに最も苦労しているのが教育方針の転換を決めた私達大人側であるのは、なんとも皮肉なところです。

また情報化社会のことを先述のように「情報の洪水」などと表現することが多いのですが、よくよく考えてみると私達は太古より、情報の洪水の中で生活しています。
視覚・聴覚・嗅覚など五感で感じられるものは全て情報ですし、私達は五感で認識した情報の中から安全なものと危険なもの、有為なものと無為なものを常に選択しています。
従来のこれらの情報は目の前で起こっていた事象に限定されていたのに対し、情報化社会の情報は地球の裏側で起こっている話でも、あるいは自分が生まれる前に起こった話でも、たった今の瞬間に目の前で起こったかのように示されるという違いが存在しているのは事実ですが、処理しなければならない情報量として大差はないのではないでしょうか。
例えば現代の我々は風の匂いや大気の湿り具合、雲の流れや夜空の星々の運行などには、専門家でない限りほとんど無関心で情報として意識していませんが、産業革命以前の人々には極めて重要な情報であったに違いなく、注意すべき情報の対象が変わっただけで、情報の総量には大きな変化はないと思います。
要は五感でリアルに感じた情報か、液晶画面を通して受けた情報かの違いが存在するだけであり、情報を活かす的確な判断力や創造性、行動力などの重要性は太古から変化しているものではありません。
ただし情報の質的な面では、大きな違いが存在します。
それは液晶画面を通して受ける情報は、少なくとも一度は、他人によって何らかの加工がなされた、ライブのようであってライブではない、加工情報であるという点です。
五感が自然から感じる情報はまさにライブ情報であって、そこにフェイクはありませんが、情報化社会から得ることのできる加工された情報には、フェイクやデマ、悪質な広告やプロパガンダが満載されているという事実です。
情報の洪水は存在しませんが、善意悪意を問わずフェイクとデマの洪水は明らかに存在し、情報化社会における個人の立ち位置を複雑なものにしています。
そこで重要になってくるのが冒頭に書きました、京大の先生がおっしゃった「ベーシックな知識や教養」であるわけです。
溢れかえるフェイクやデマを見抜いて正しい情報を選択し、地球の裏側にいる初対面の人と相応のレベルのコミュニケーションを行うためには、今よりも高い水準の「ベーシックな知識や教養」が必要とされることは、容易に理解できることです。
いかに情報化社会が発達し、AIやロボットが生活の中に浸透してこようとも、それを扱う私達に正しい選択を行うために、また文化や考え方の違う多くの人々と語り合うために、詰め込み記憶型ではなく本当の意味で身についた、より高い水準の知識や教養が強く求められるようになるであろうと考えています。

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